
2010年01月20日
モデルルームに置いている 湿度計です。 湿度計は凄く 狂いやすいようです。 同じ場所においているのに 片方が60数% もう片方は 30数%です。 実は この日の室内湿度 正しくは50%でした。 どっちも 壊れていました。 1年が寿命のようです・・・。
昨日は 東京で石の癒スタッフで自主参加希望者様を対象に 自己磨き研修会を開催しました。 全国から参加頂きましたが・・・
なかでも 人の凝り を取ってあげる勉強会の時間は もの凄く盛り上がりましたよ。 人の喜びを自分の喜びに出来るように!
との AnnyGroupの理念にふさわしい研修会となりました。
下記 本日 大変尊敬するN氏から届いたメルマガの一部です。 考えさせられました・・・。いつも N様 有難うございます。
感動して 涙した![]()
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タリック
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ちょっと良いお話
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○親守歌が聞こえる○
私が中学三年生で、高校受験を間近にひかえた寒い冬のことであった。
私は中学二年生の頃から、先生の勧めもあり、他の二人の友人と共に天草を離れ 熊本市内の高校をめざして頑張っていた。
父母も特に反対しなかったため、当然、行かせてもらえるものと考えていたのである。 しかし、市内の高校に行くことになれば、下宿が必要で、そのために要する費用は大変なものであった。
八人の子どもをかかえた“五反百姓”のわが家には、とうていそのような余裕などなかったのである。
正月も近まったある寒い夜、私は父に呼ばれて、囲炉裏の端に座らされた。私の心は期待でおどっていた。
母も父の横に座って、私をじっと見つめていた。そして、父が言ったのである。「熊本はあきらめて、天草の高校に行ってくれ」 私は驚き、「なんでや」と父にむかって大声で叫んでいた。私は泣きながら、父のかいしょうのなさを何回も何回も大声でののしった。日頃厳しい父もその時は目をつぶったまま、無言で何かをかみしめているようであった。
母は何かを頼むような目で私をじっと見つめ、その目には涙が光っていた。 しかし、私は消えかけた囲炉裏の火を見つめながら、父母をののしり続けたのであった。
その夜から、私はぜんぜん勉強せず、家族にも口を聞かなくなった。
そのため、家の中は毎日、重苦しい雰囲気が続いていた。
母は何やかやと用件を作って、私のところへやって来て、話しかけるのであった。しかし、私はそんな母を徹底的に無視し続けたのであった。
そして、年が明けて元旦となった。
私の家では、毎年元旦の朝には、家族全員がそろって、初詣に行くことになっていた。元旦の朝、母は何回も私のところへやって来て、一緒にくるように必死でたのんだのである。しかし、私はそんな母を無視しふとんをかぶったまま寝ていたのである。それで母はとうとうあきらめて、出て行ったのである。
ふと気がつくと、枕元に五,六枚の年賀状が置いてあった。
私はふとんの中で、何気なくそれを手にし、たいした感情もなく、一枚ずつそれをめくっていった。それはほとんど同じクラスの友達からのもので、「今年も頑張ろう」「今年もよろしく」という内容のものであった。
しかし、最後の一枚を読んで私は驚いた。それは年賀状らしくない長々しいものであり、エンピツ書きで、ところどころなめたらしい
濃い部分が残り、カタカナまじりで書かれていた。
差出人の名前はなかったが、私にはそれが同じ家に住む母からのものだということはすぐにわかった。「お前に明けましておめでとうというのは、本当につらいです。でも母ちゃんは、お前が元旦に皆の前で笑いながら、おめでとうと言ってくれる夢を何回も見ました。
母ちゃんは、小さい頃お前が泣き出すと、子守唄をうたって泣きやませました。でも、今はもうお前にうたってやる子守唄もないので、本当に困っています。今度はお前が母ちゃんに、親守歌をうたってほしい」
十四歳の私は、元旦のふとんの中で、声をあげて泣いた。
そして、泣きながら、母にあやまり続けたのであった。
それは反抗期の私に対する母の、心からの子守唄だったのである。
「親守歌が聞える」 荒木忠夫著 より